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「いや、――わしはそんなこたあ嫌ひだ」
一方には盛子の妊娠があつた。それは気を痛めるやうなものではなかつたが、やはり房一の存在の奥深く喰ひこみ、そこに微妙な、ふしぎな目に見えない点を植ゑつけた。道平の病気は彼を動揺させた。この二つは房一にとつては切つても切れないものだつた。そして、そこには或る一つの脈絡と対比が、生れるものと去つてゆくものとが、今や動かしがたい明瞭な兆候となつて現れていた。それは今までたゞ一方的に無我夢中だつた房一をひよいと立ちどまらせ、彼をもあらゆるものをも抱きこんでいる大きな流れが、突然きらりとそのありのまゝの起伏、その横顔といつたものを見せたやうに思はれた。いや、見せただけではない、知らぬまに、予期せぬうちに、彼はまさしくその茫漠とした果しないものの中に身体ごと足を踏みこんでいるのを、彼のまだ考へたことのないあの人生といふものが疑ひもなく彼の上にはじまつているのを感じた。
「うむ、さうか。玄関のことか」
日は高く上つて、噎むせるやうな温かい空気が、時々、風の工合で河原の方からやつて来た。徳次も切り上げて来た。三箇の魚籠びくを中にして、頭を並べて獲物を見せ合つた。
「ね、お母あさん。これ、こんなに汚いでせう。もう少し……たいんですけど。……でせうねえ」
房一はいくらかつんぼの道平の耳に口を寄せて、大声で云つた。
「別に何日からでもないんです。今日からでも――」
「いや」と、喜作は相変らずきつぱりと、煩うるさがりもせず答へた。
口ごもつて、
「坊は?」
「いつこちらへお帰りでしたか」
「ジョン、降りろ」
これはちっとも可笑おかしくない!彼ら二人は実にいい夫婦なのである。