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彼は自転車[#「自転車」は底本では「自転者」]にのつた。走り出した。風が頬をかすめた。房一の紅黒い、生真面目な、醜い、厚ぽつたい顔が目の前にのこつていた。
最初、房一の頭の中にはペンキ塗りの清潔な外観を持つた医院が描かれていた。だが、この長たらしい築地にかこまれた家を一見するに及んで、その考へは棄てざるを得なかつた。今の大工の一言できまるまでに、何度玄関を外から眺めたことだらう。
「連れっ子をして行ったです。その子供がまたチブスになって、……」
その時やつと、男は少しうなづいた。そして背中に負はれて出て行つた。
広い家の中では盛子一人だつた。もうとつくに羽織袴も居間に出して置いたし、履物も足袋も揃へた。帰りさへすればすぐにも出かけられるのだ。だが、足音も聞えはしない。盛子はさつきから何度も玄関に出てみたり、それから裏口から外の小路に出て河原の方をすかし見たりした。
「いや、何もしたといふわけぢやない。これから先きのことだよ。かゝり合つちやいかんと云ふんだ」
「ねえ」
と、誰かが大声で叫んだ。
「あれですな、さういふお話をうかゞふと、貴方ほどの努力家は東京に残つて研究をつゞけられた方がよかつたかもしれませんな。よく又、こんな田舎に帰る気になりましたね」
「別に惜しいほどのことではありませんよ」つづけて、ふいに調子を変へると、
と、呟き、房一に向つてしきりとうなづいていた。
それに、茂子がこんな風にひよいと家を出て実家へ帰つたまゝ、十日も二十目ももどつて来ないなんてことは、別に珍らしいことでもなかつた。たゞ、この半年ばかりは落ちついていたのである。もう慣れつこになつている。そのうち又舞ひもどつて来るだらう。来なければ来ないで、それでもちつとも差支へはない。要するに、どうでもよかつた。居ない間が気楽といふものだつた。
黒い影はぴよこりとお辞儀をした。それから台所から射す光りの中に全身を現すと、それを眩しがつているとも照れたとも見える表情を浮べながら近づいた。