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と、今やうやく気づいた盛子が叫び声をあげた。
だが、どうせ頭を下げるのなら大石医院だけでなく目星めぼしいところをあらかた廻つてやらう、叮寧にやつたところでどつちみち損はないわけだと、この打算力に富んだ若い医師は考へついた。さう決心すると、幼時から彼に巣喰つていて、今では彼の中に強靱な支柱のごときものになつている闘争心のおかげで、房一には自分が頭を下げて歩く姿よりは、河原町の家々を虱しらみつぶしに一つ宛身体をぶつつけて歩く姿の方が眼に浮かんだ位だつた。
さつきから、日のあたる縁側近くに縫物を持ち出していた盛子は、あんまりびつくりしたのと身体が重いのとで、立上ることを忘れてかう感嘆詞を連発しながら、あの語尾の跳ね上りを少し響かせながら、庭先に現れた人影に向つて目を瞠みはつていた。
房一は又重たげな恰好で坂路を登つて行つた。下を見ると、心持阿弥陀あみだに被つた練吉のソフト帽が、もう小さく桑畑の間を走つているところだつた。彼は、練吉の気弱さうでもあり、又疳かんの強さうにも見える眉のあたりの色を、今ごろになつて急にはつきり思ひ出した。
今彼が得て帰つた「医師高間房一」としての地位は、河原町に対する彼の野気を示すに恰好なものであつた。帰郷以来彼を迎へた河原町の人達の眼に、房一はその証拠を見た。だが同時に、彼が押して得た一歩か二歩を隙さへあれば押しもどさうとするやうな色も見分けた。若し彼が何かの意味で失敗すれば、彼等はすぐに嘲笑に転じ、又あの鈍い圧迫の下敷にして彼の気力を根こそぎにしてしまふだらう。
相沢は満足さうに馬の首を叩きつゞけていた。房一は思はず微笑した。彼にはこの時の相沢がひどく愛嬌あるものとも見えたからである。けれども、房一自身の顔にさつきから現れているものも、ちやうど子供が好きな物を前にしたときに見せるあの熱心さと同じ表情だつた。
今日見るその顔は、色こそ黒かつたが、地蔵眉の、眼もそれに釣り合つて細い糸を引いたやうにやさしかつた。だが、その声には何かきつぱりした、率直さが感じられた。
と、房一は帽子を手にやつた。
「なに?」
「さうか。うちの方では山車だしを引いて出るさうだ。それから、みんな紋付に羽織袴といふことだの」
たしかに、一年余りといふ年月は経過した。それは暦の上でもはつきり現れているし、房一の身辺でも紛まがふことなく通過した。たしかにいろんなことが、予期したことも予期しないことも起つた。それにもかゝはらず、そこには何か了解しがたいものがあり、一口に一年といつてしまふにはあまりにはみ出たものがうようよして感じられるのであつた。これにくらべれば、彼が開業のはじめに空想したさまざまのことは、あの医師高間房一としてこの町にしつかりと根を生やすといふことは、どんなに小さくどんなに単純なものだつたらう。いや、彼の空想は着々として実現していた。何故なら、どこにも医師高間房一としての失敗は認められなかつたから。それでもなほ、彼の前もつて考へたことは、起つたことにくらべればとるにも足りないものだつた、といふ感じを抱かざるを得なかつた。そこには何か大きなものが、大きくつて親しい、落ちついたものが現れているやうに思はれた。
次に記すのは、ほんとうの怪談らしい話である。
彼は男の顔を蔽つている手拭をとりのけながら云つた。